コラム
我らハンドボール応援団

第4回 迫本 淳一(松竹株式会社 代表取締役社長、弁護士)




迫本 淳一(さこもと じゅんいち)
松竹株式会社 代表取締役、弁護士
1953年4月2日東京生まれ。 慶応義塾高校、慶応義塾大学経済学部、法学部卒業後、松竹映画劇場株式会社(現 松竹株式会社)に入社。高校時代にハンドボール部キャプテンとして活躍。
1990年に司法試験に合格、93年弁護士登録(第二東京弁護士会)、97年カリフォルニア大学ロサンゼルス校ロースクール修了、ハーバード大学ロースクール客員研究員。 98年松竹株式会社顧問、副社長を経て、2004年より現職。

―本日はご多忙の折り、お時間をいただき、ありがとうございます。
 早速ですが、ハンドボールと出会ったころを振り返っていただけますか。

 慶応義塾幼稚舎(諸学校)5年で水泳を初め、普通部(中学校)3年生の時には関東大会100m自由形で優勝しています。そのまま水泳でかなり上を目指したいと思っていたのですが、医者から突然「心臓肥大かも」と診断され、これ以上厳しい練習はとてもできないと断念。
 慶応義塾高校入学と共に、普通部時代に体育の授業で経験し、面白いと感じていたハンドボール部の門をたたいたのが出会いです。

―当時の慶応義塾高校のハンドボール部は、どんな様子だったのでしょうか。

 高校1、2年の時は結構甘かったですね。砂場で走り幅跳びをやって、買った人だけがチョコレートパフェを食べられる、といったことが思い返され、練習が苦しかったという思い出がありません。高校2年の公式戦も1引分け以外は全敗という成績でした。

―そうした雰囲気が最後まで続いたのでしょうか。
 高校2年の秋、新チームのキャプテンをさせてもらうことになりました。
 水泳もそうでしたが、目的を決めると遮二無二やるタイプ。とにかくチームを強くするために滅茶苦茶頑張ろうと、とことん走り込み、ディフェンスを固めて速攻のスタイルを追求しました。また、慶應義塾大学のハンドボール部が身近な存在で、大学生にいろいろと教えてもらえる環境でしたし、強豪校に胸を貸してもらえたのも大きかったですね。
 中央大学付属高校(東京)を率いていた川上整司先生(元・日本ハンドボール協会特任副会長)にはお世話になりました。強くなるためには強いチームと練習試合が必要だと、いろいろな学校に練習試合を申し込みましたが、当時の慶応義塾高校は無名で、思うように受けてもらえない中、川上先生は快く受け入れてくださいました。当時の中央大学付属高校は、私と同級生には大熊君(昌巳氏、中央大学・大崎電気OB)、1歳下には蒲生君(晴明氏、前・日本ハンドボール協会副会長兼専務理事)がおり、全国でも有数の強豪校でした。

 練習試合のために中央大学附属高校に向かうと、川上先生が非常に厳しい指導をしている。僕たちは厳しい指導を受けたことがないメンバーばかりでしたから、「ここまで来ただけでもいい思い出だから、これで帰ろうか」と話したほどです。
 試合は案の定、ダブルスコアで敗戦。試合後、キャプテンの私が川上先生に呼ばれ、怒られるのかと思ったところ「ウチから半分、点を取れるチームは東京にはないぞ。これからも試合に来い」と言っていただきました。

―日々の練習の様子も聞かせてください。

 大学生や川上先生の存在とともに、日々、監督として指導してくださり、人生に多大な影響とご恩を受けた田中明先生の存在の大きさも計り知れません。日々の練習は、田中先生のもと、授業が終わってから2、3時間。技術がないので「とにかく走り込もう」とひたすら走りましたね。従来は夏に合宿を行っていましたが、おもな試合は春から夏で終わってしまうので、あまり意味がないと考え、冬の合宿も行いました。
 雨の日、他の部の大学生が練習を休むような時も練習をしましたね。雨の中、練習をしたからといって、技術が向上するわけではありませんが、当時はグランドの試合が主流でしたから、雨の中でも試合があります。豪雨の中でも練習をしたことが自信にもなったように思います。

―当時のチームカラー、ハンドボールのスタイルは?

 僕のポジションは右45度(現・レフトバック)でした。引っ張り(ゴール左下)のシュートが得意でしたが、抜群の得点力を誇るようなポイントゲッターだったわけではありません。声も体もデカくて、目立つ僕が、ワッと前を攻めて相手ディフェンスを引きつけ、ポロっと右サイド(現・レフトウイング)にパスを落とす。当時の右サイドが、昨年日本ハンドボール協会副会長に就任した福地和彦君です。彼が右サイドから上を向いて下、下向いて上とGKを惑わせてシュートを決めるのが得意でした。
 僕と福地君とのコンビプレーとディフェンスからの速攻が慶応義塾高校の得点源。そのカラクリがばれてきたらディフェンスを固め、じっくりとボールを回して逃げ切るのが必勝パターンでした。

―努力を重ね、スタイルを貫いて大きな目標を達成された訳ですね。

 3年生になり、インターハイ予選を展望する新聞には「慶応、頭角現わす。選手自身が非常にやる気になっているうえ、キャプテン迫本がリードオフマンとしてチームを完全にまとめている。県総体(インターハイ予選)でも慶応旋風が巻き起こることはまず間違いないところ」と書かれています。予選ではその展望記事のとおり進撃し、法政大学第二高校とともにチームとして初めてのインターハイ出場権(当時、神奈川県からは2校出場)をつかみました。

 インターハイ出場が決まってからは、田中先生の母校、日本体育大学とも練習試合を組んでいただきました。ここではGKの本田洋氏(元・日本代表)がボールを顔で取る練習をしている。こりゃまたレベルが違うなと感じたものです。

―大舞台での闘いはいかがだったでしょうか。

 愛媛県(松山)でのインターハイは、2回戦からの登場。事前の関東大会では上位に行けなかった慶応義塾に対して、相手の熊本第一工業高校(熊本、現・開新高校)は、九州1位のチーム。「(相手には)かなわないだろう」という思いで臨んだところ、いざ戦ってみると、前半を7-4とリードして折り返したんです。
 ところが後半、まず僕が退場し、副将の川崎正君も退場。さらに僕はコートに戻ったあと、相手のフリースローからの攻撃を後ろからはたいてしまった…。これで2回目の退場です(※)。いまだに「お前があんなことしなければ…」と当時のチームメイトに言われ続けているシーンです。
 (※)編集部注:当時のルールでは、1回目の退場は「2分」、2回目が「5分」、3回目が「残り時間すべて=失格」の3段階。退場はめったに判定されない時代だった。

 戦評にも「慶応はつまらぬ退場で失った点が最後まで響き…」と書かれているように、14-15と1点差で涙を飲みました。気持ちが高揚していたんでしょうね。田中先生からは「何やってんだ!!」と一喝され、もっと怒られるかと思っていたのですが、「そういうことはあるんだよ」と言ってもらったことを覚えています。田中先生には、よく見ていただいて、ご指導いただきました。田中先生からのご指導は、今思い出しても涙ぐむほどです。
 インターハイ後は、県選抜のメンバーとして国体の関東予選にも出場しましたが、そこまでムキにになってやった記憶はありません。最後は3年ぶりに早大学院との早慶戦に勝ち、高校でのハンドボールが終わりました。目標としては、もう少し全国大会で上位に勝ち進みたかったのですが。インターハイでの2回退場は最悪ですよね。戻れるならば、やり直したい場面です。

―熱く燃え得た高校生活のあと、ハンドボールとのつながりはどうなったのでしょうか。

 大学でもハンドボールを続けたいとの思いもありましたが、当時はビジネススクールに留学し、英語をきちんと勉強したい、という夢がありました。父親は「スポーツは勝たないといけない」という人で、「なんの制約もしないが、やるならトップに。日本体育大学に行け」と。僕が入れるかわからないし、慶応義塾高校から日体大に進んだ人もいません。制約しているのと同じですよね(笑)。
 それで勉強一色に方向転換。全日本学生連盟会長就任のお声がけいただくまでは、ハンドボールとは無縁でした。水泳のあともハンドボールに打ち込んだように、やる時は一生懸命、もう一つ上の世界を目指す、という性分です。僕と谷井一彦君以外の川崎君、福地君、米内光治君、木村孝弘君の4人は、慶応義塾大学でもハンドボール部に入部。福地君は関東リーグで得点王になりました。

―全日本学生連盟会長に就任されて、再びハンドボールとの縁がつながったわけですね。

 会長就任については、田中先生が推薦してくださったのではないか、と思っています。当時、慶応義塾大学ハンドボール部OBの川上憲太氏(元・日本ハンドボール協会専務理事)と全日本学生連盟理事長(現・副会長)の福地賢介氏が来られて、会長就任の要請を受けました。
 みなさん、大学でもプレーされた方ばかり。任が重いとお伝えしたのですが、「かまわない」と説得されてお引き受けした次第です。みなさんにおまかせ状態で申し訳ないのですが。

―改めてハンドボールの魅力を聞かせてください。

 もっともっと普及して然るべきスポーツですよね。単純に競技としておもしろいです。ヨーロッパでサッカーに次いで人気があるのは頷けます。
 僕が現役時代は、卓球とマイナースポーツの座を争っていたものですが、今や卓球はすっかりメジャー。とても残念ですね。

―ハンドボールがメジャースポーツへと進化するために、何が必要と思われますか?

 会社でもよく話すのですが、経営、マネージメントを担う人たちと、現場のクリエイティブに携わる人たちがうまくいくか、ということ。下手をすると、クリエイティブのほうは、ビジネス、マネージメントをされると、自分たちの活動の領域が狭まるんじゃないだろうか、という思いを抱き、経営、マネージメントの側は、クリエイティブは無駄なお金ばっかり使っている、と相反してしまう。けれども、双方のコミュニケーションがうまくいけば、すごいシナジー(相乗効果)があるんです。
 きちんとした組織ができて、お金が儲かるようになれば、クリエイティブなところも継続してモノづくりができる環境になる。いいモノができると、マネージメントもしやすくなる。つねに補完関係なんですよね。
 スポーツも同じです。より能力のある人がマネージメントに従事し、その人たちと現場の人たちが、どれだけコミュニケーションが取れるか。もちろんビッグイベントで勝つことが究極の目標ですし、スターを作ることも必要でしょう。
 さらに、ビジネスとしてもっとクラブチームを盛んにすることです。学校体育としてのハンドボールの良さとクラブのビジネスがミックスされ、いいプレーヤーが経済的にも成功する姿が見えるようになれば、もっとハンドボールに取り組んでくれる人が増えると思います。
 そうした流れを作れるプロデューサー的能力のある人を登用する。そして、マネージメントと現場のコミュニケーションを大切にする。その2つが重要と考えます。

―ハンドボールからどんなことを学ばれましたか?

 水泳は個人競技ですが、ハンドボールはチームプレー。田中先生から学んだ座右の銘は、克己心です。自分が選択に迷ったら、苦しいほうを選ぶ。辛くて、悩んでいる時は、前に進んでいる証拠。だから乗り越えていかないといけない。
 また、ハンドボールは個人競技とは違い、チームプレー。みんなでやって、目標を達成する、という貴重な経験もしました。弱いところからでも道は開ける、というとこも、身をもって体験しました。
 このようにたくさんのことをハンドボールを通じて教えてもらい、そしてハンドボールで学んだことは今につながっています。

―最後に、これからのハンドボール界を担う選手たちや、壁を越えられずに思い悩んでいる人たちにメッセージをお願いします。

 僕自身もうまくいかないことが多く、偉そうなことは言えませんが、辛い時ほど前に進んでいる時です。いい時は何をやっても良くなるもの。成功している人を見ると、辛い時に何をしていたかが大切だと感じます。弁護士時代、犯罪者と会うことも多くありました。彼らは決して特別な人たちではありません。辛い時に、ちょっと楽な方に行ってしまった人たちでした。
 成功する人は、辛い時に歯を食いしばる。歯を食いしばるのも、漫然とではなく一生懸命に動いて、です。歯を食いしばりながら一生懸命に動けば、必ずいい方向が見えてくると思います。

―本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。